みなさんこんにちは。大和鋼管工業株式会社の安全・操業最適担当の北郷(ほんごう)です。
株式会社マイナビが発表した"マイナビ 2022年卒大学生就職意識調査"によると、就職する企業選択のポイントは"安定している"が最多となり、前年から4.5ポイント増えて42.8%、2001年卒調査以降で最も高い割合になっています。
これは新型コロナウイルス感染症の影響による依然として不透明な経済情勢を反映して、少しでも安定した未来を見通せる就職先を選択をしたいという思いが伺える結果となったと考えられています。
参考文献:株式会社マイナビ ニュースリリース2021.04.26 「マイナビ 2022年卒大学生就職意識調査」(株式会社マイナビ トップページ)
みなさんは、"安定した企業"とは具体的にどのような企業をイメージしますか?
"安定して利益を生む大企業"や"生活のインフラを支える業種"をイメージする方もいると思いますが、私は"社会の変化に対応できる企業"だと考えます。
今回は社会の変化に合わせてせて私たちが行なってきた、生産拠点の拡大や集約した歴史、新しい商品を開発した経緯を紹介させていただきます。
これらは"皆さん一人ひとりが安定した企業"を自身の眼で見極める際の参考にもなると思いますので、興味のある方は是非最後まで読んでみてください。
大和鋼管の歴史の概略
大和鋼管工業はの歴史は1932年09月に創業者である中村留市が大阪市大正区北恩加島に中村巻パイプ製造所を創業し、溶接鋼管の製造販売を開始した事から始まります。2021年09月現在で既に創業89年もの歴史を紡いだ事になります。
西暦 | 出来事 |
1932年 |
中村巻パイプ製造所を創業 |
1944年 | 大和鋼管工業株式会社に改称 |
1955年 | 福岡県北九州市に工場を新設 |
1957年 | 大阪府堺市に工場を新設 |
1973年 | インラインメッキ設備”ダイワZプロセス”を開発/導入 |
1987年 | 栃木県のさくら市に工場を新設 |
1996年 | 軽量単管パイプスーパーライト700の販売を開始 |
2004年 |
世界初の内面メッキ+外面全周完全溶融亜鉛メッキ鋼管”パーフェクトポストジンク”の製造/販売を開始 |
1955〜1957年に九州工場/堺工場を新設
まず私たちが溶接鋼管の生産量を大きく増やすきっかけとなったのは、日本で木材から鉄鋼等の耐久製材料への切替えが進められた為です。
1950年代の日本では戦中/戦後の乱伐等により森林が荒廃している事が問題視され、国家的な"森林の回復"と"都市の不燃化"が進められました。
この事を踏まえ1955年に日本で”木材資源利用合理化方策”が決定され、土木・建築材料は耐久性を持たせるために木材の防腐化や鉄鋼/軽金属/コンクリート等の耐久製材料への切替が促進されました。
この社会の変化を踏まえて私たちは、日本の経済成長そのものや多くの資材が木材から鋼材へ切替わる事で溶接鋼管の需要が高まると考え、1955-1957年の短い期間で工場を2カ所新設しました。
九州工場の新設は、当時に製造していた酸素鋼管が全て他社でカロライズ加工された後に福岡県北九州市の八幡製鐵所へ納入されていた為、福岡県北九州に新たな製造拠点を持つことで、加工費用/運送費を圧縮でき顧客の利便性も改善できると考えたからです。
また一方で大阪府堺市に新設した堺工場は、前述のとおり日本の高度成長期に相まって増加していく鋼材需要に応えるべく製造を開始し、その後順調に生産量を増やして主力工場へと成長しました。
1973年にポストジンク鋼管の販売を開始
1954年〜1973年は日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期です。当時の堺工場では、月5,000トンの黒管を生産していて、その内1,500トンは他社で亜鉛メッキを施した"メッキパイプ"でした。
1973年にはオイルショックが発生し物価は急上昇して、企業/労働組合などが製品価格上昇や賃上げを行った為、製品が長持ちする耐久性を含めたコスト意識が高まりました。
このような時代の背景を踏まえ、我々は世界特許を取得した溶融亜鉛メッキ鋼管連続自動製造法”ダイワZプロセス”を開発し、堺工場に導入しました。今まで他社で亜鉛メッキを施していた"メッキパイプ"に比較すると、品質/価格の両面でメリットがある"ポストジンク鋼管"を自社で一貫製造し販売する事は、大和鋼管が企業として大きく飛躍する原動力になりました。
ポストジンク鋼管説明図
1987年にさくら市に関東工場を新設
1986年12月から1991年02月までの51か月間は、日本に"バブル景気"と呼ばれる経済ブームが訪れ、資産価格は軒並み上昇する好景気となりました。
ポストジンク鋼管の販売開始して以降、大阪府堺市の堺工場では生産量と販売量を順調に増やしていましたが、この"バブル景気"により更に需要が高まるものの、堺市から離れている東日本のお客さまに対しは供給/輸送の両面で十分な対応が難しいと同時に、企業として大きな成長の可能性を感じていました。
この情勢を踏まえ、現在さくら市となっている栃木県塩谷郡鷲宿に建設された喜連川工業団地内に私たちの関東工場を建設し、東日本のお客さまのポストジンク鋼管の需要にも応えられる体制を構築しました。
1989年以降の大和鋼管
平成に入るとまもなく日本のバブル経済は崩壊し、"少子高齢化、"デフレ"、"新興国の追い上げ"等の様々な社会問題や経済問題が現れます。
"バブル崩壊"や"少子高齢化"により、日本の鉄鋼需要はピークを過ぎ、経済成長が以前より衰え、鈍化しました。私たちはこの情勢を踏まえ、過剰な生産設備や体制を整理整頓し”操業最適化”を実現する為に、2000年に生産拠点を栃木県さくら市の関東工場に集約し、更に2011年には本社も統合し現在に至ります。
一方で私たちは"少子高齢化"や"新興国の追い上げ"に対応すべく、付加価値が高く差別化が可能な製品である"スーパーライト700"や"パーフェクトポストジンク"の販売を開始し主力製品に成長させています。
まとめ
今回は社会の変化に合わせてせて私たちが行なった、生産拠点の拡大/集約の歴史や新しい製品を開発した経緯をザックリとご紹介しました。
89年分の歴史をまとめると大胆な決断や行動ばかりが目立ってしまいますが、私たち一人ひとりが具体的に日々行なっている事は、常に社会環境の変化を分析/統合する事で進化し続ける目的を明確にし、事業の全体性への感性を磨きながら、自社として"続けること/止めること/始めること"を判断し実行する事です。
私たち一人ひとりが如何に今様々なチャレンジに取組み成長しようとしているかに興味のある方は、火曜日/木曜日に新卒者向けの大和鋼管工業のWEB会社説明会も開催していますのでお気軽にご参加ください。既にリクナビに登録している方は以下のリンクより申込を宜しくお願いします。ありがとうございました。
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